「相談しやすい人」で終わらない――ファンが育つ言葉のつくり方【3】

最終話 「この人だから見たい」が、ファン化の始まり

前回は、嫌な道を通りたくないことと、目的地を諦めることは同じではない、という話でした。

蛙のいる道が嫌なら、別の道を探してもいい。

庭に蛙が来るのが嫌なら、芝生以外の庭を考えてもいい。

ずっと動けなかったのは、意志が弱かったからではなく、

「その道しかない」と思い込んでいただけかもしれない。

そこまで分かったとき、もう一つの疑問が浮かびます。

別の道を探す前に、そもそも――

その目的地は、本当に自分が行きたい場所なのでしょうか。

自分で選んできたつもりだった。

自分なりに考えて、失敗しない道を選んできた。

けれど本当は、嫌なものを一つずつ消したあとに残った道を、「これが私の道だ」と思っていただけかもしれない。

連載の最終話は、そんな少し怖いところから始まります。


音声から聴きたい方はコチラ

SNSやAIが決めた未来を、自分の理想だと思っていないか

好きなものは、好きなままでいい。

周りと違っていても、無理に変える必要はありません。

自分が食べ放題を好きなら、それでいい。

静かに一人で働くのが好きなら、それもいい。

大勢の人と関わりながら仕事をする方が楽しいなら、そう選べばいい。

自分の好きを、他人に認めてもらう必要はありません。

同時に、自分の好きを相手に押し付ける必要もない。

好きなものは違っていていいし、どう行動するかは本人が決めればいい。

ここまでは、すごくシンプルです。

でも問題は、

自分が本当に好きだから選んだのか。
誰かが良いと言っていたから、好きだと思い込んでいるのか。

その違いが、自分でも分からなくなっていることでした。

「みんながそう言っているから」で人生を決める

「SNS見ても、みんながこう言ってるから人生決めちゃってるんだよ」

「AIに聞いたらこう言われたんで、最近多いですね」

うっ。

AIを使って仕事をしている身としては、かなり耳が痛い(笑)

もちろん、SNSやAIを使うこと自体が悪いわけではありません。

知らなかった方法を知れる。

考えを整理できる。

自分だけでは見つけられなかった選択肢にも出会える。

それでも、

  • SNSで流行っているから
  • 成功者がやっているから
  • AIが最適だと答えたから
  • 周囲がその方法を選んでいるから

という理由だけで未来を決めたら、それは本当に「自分で選んだ」と言えるのでしょうか。

参考にすることと、決定権を渡すことは違います。

情報を集めたあと、最後に、

「それで、私はどうしたいんだろう」

と自分へ戻ってこられるかどうか。

そこが抜けると、誰かが作った正解を、自分の理想として追いかけることになります。


嫌な道を消し続けた結果、残った道を「運命」だと思っていた

前回の蛙の話で考えてみます。

目の前にいくつかの道がある。

一つ目には、蛙がいる。

怖いから消す。

二つ目には、人から否定される可能性がある。

傷つきたくないから消す。

三つ目は、失敗するかもしれない。

恥をかきたくないから消す。

四つ目は、家族に反対されるかもしれない。

揉めたくないから消す。

そうやって、嫌なものがある道を一つずつ消していく。

すると最後に、一本だけ道が残ります。

その道を見て、

「これが私の進むべき道なんだ」

「きっと、ここへ行くのが正解なんだ」

と思ってしまう。

でも、その道は、

  • 好きだから選んだ道ではない
  • 理想に近づけると感じた道でもない
  • 心が動いたから選んだわけでもない
  • ただ、最も否定されにくかった道

なのかもしれません。

私が、

「でも、最後に残ったものを選んでるなら、自分で選んだことにはならないんですか?」

と聞くと、返ってきたのは一言でした。

「選べてねえよ」

グサッ。

かなり容赦がない。

一生懸命考えたのに。

嫌なことも避けながら、自分なりに安全な道を探したのに。

それを「選べていない」と言われたら、少し腹が立つ人もいるかもしれません。

でも、消去法で残ったものを選ぶことと、

「私はこれがいい」

と手を伸ばすことは、やはり違うんですよね。

消去法で選んだから、進むのがしんどい

本当は好きではない道を歩くには、強い努力が必要になります。

興味がないから、続かない。

心が動いていないから、毎回自分を奮い立たせなければならない。

誰かに褒めてもらえないと、進んでいる意味を感じられない。

それなのに、

「どうして私は続けられないんだろう」

「やっぱり覚悟が足りないのかな」

「もっと頑張らなければ」

と、自分を責めてしまう。

でも、もしかすると続かない理由は、根性不足ではありません。

自分が選んでいない道だから、歩き続けるのが苦しい。

ただ、それだけかもしれないんです。


「好き」も「嫌い」も、他人に決めてもらっていた

自分の理想だけではありません。

何が好きで、何が嫌いなのかも、気づかないうちに他人へ決めてもらっていることがあります。

「母親に否定されたから、人前で話すのが嫌いになった」

「先生が嫌いだったから、勉強も嫌いになった」

「親にやれと言われたから、宿題が嫌だった」

こういう話は、よくあります。

確かに、その人との経験が影響した部分もあるでしょう。

でも、もう少し内側を見てみると、

  • 分からない自分を見るのがしんどかった
  • うまくできないことが恥ずかしかった
  • 自分で決めていないことをやらされるのが嫌だった
  • 本当は、今は別のことをしたかった
  • 難しいものに向き合うことが怖かった

という、自分側の理由が隠れているかもしれません。

「先生が嫌だったから」

「親が言ったから」

で止めてしまうと、自分が何を嫌がっていたのかが見えなくなります。

そして原因がずっと外側にあるため、自分では変えられないものになってしまう。

褒められなくなったら、好きではなくなる

これは私自身にも、思い当たることがありました。

褒められると楽しい。

反応があると、もっとやりたくなる。

「すごいですね」と言われると、自分の得意なことだと思える。

でも、反応がなくなった途端に、

「あれ、私って本当にこれが好きだったのかな」

と分からなくなることがあります。

「褒められるから好き」

「認められるから楽しい」

「反応があるから続けられる」

それ自体が悪いわけではありません。

誰だって、反応をもらえたらうれしい。

けれど、その反応だけで自分の好き嫌いを決めていたら、周囲の態度が変わるたびに、自分の進む方向も変わってしまいます。

「好きも嫌いも他者次第だから、全部コントロール周りにされる」

うっ……。

これも、かなりグサッときました。

売れたら好き。

反応がなければ嫌い。

褒められたら、自分に合っている。

注意されたら、向いていない。

そんなふうに決めていたら、自分の感情の決定権を、ずっと外へ渡していることになります。


本当に好きなものは、誰に褒められなくても見てしまう

ここで話は、ジャニーズやアニメへ飛びました。

仕事のセミナー動画を見ようとすると、なかなか再生ボタンを押せない。

再生しても集中できない。

途中でスマホを見たり、別のことを始めたりしてしまう。

それなのに、好きなアーティストのDVDなら、何時間でも見られる。

アニメなら、一気に一シリーズ見てしまう。

寝る時間を過ぎても、

「あと一話だけ」

が止まらない。

誰かに褒められるわけでもありません。

見たからといって、すぐ仕事の役に立つわけでもない。

それでも見てしまう。

好きな場面を何度も見返し、聞かれてもいないのに、

「あのシーンが本当に良くて」

と語りたくなる。

義務で見ているものからは、言葉が出てこない

「学ばなければならない」

「感想を書かなければならない」

「仕事に生かさなければならない」

そんな気持ちで見ている動画は、なかなか頭に残りません。

見終わったあとも、

  • 感想が思いつかない
  • 学んだことを無理に探す
  • 正しそうな言葉を並べる
  • アウトプットまで義務になる

ということが起きます。

一方で、本当に好きなものは、感想を書こうとしなくても言葉が出てくる。

心が動いた場所が分かる。

人に話したい場面も、自然に浮かんできます。

好きだから言葉が出る。
好きだから、もう一度触れたくなる。

そこに「やらなければ」はありません。


「学ぶべきだから見る」から、「この人だから見る」へ

拓さんのセミナーも、決して優しい話ばかりではありません。

むしろ、

「そこまで言う?」

と思うこともある。

耳が痛い。

見たくなかった自分も見える。

ときどき、静かに画面を閉じたくなる(笑)

でも、なぜか続きを聞きたくなる。

  • 話が分かりやすい
  • 視点が思っていた方向と違う
  • 続きが気になる
  • 自分の中の疑問を言葉にしてくれる
  • 感想を伝えると、さらに補足が返ってくる
  • 聞くほど、自分の理解が深くなる

最初は「この内容が知りたい」だったものが、少しずつ、

「拓さんが、この話をどう見るのか知りたい」

へ変わっていく。

テーマだけを追っているのではなく、その人の視点そのものを見たくなるんです。

そこで、冗談交じりに聞きました。

「じゃあ、拓さんは私にとってのジャニーズってことで合ってますね」

「私のアイドルってことで」

すると、

「それがファン化ってやつじゃない」

と返ってきました。

……あ。

ここで、ファン化という言葉が急に、自分の体験としてつながりました。

ファン化とは、内容を超えて「その人を見たい」状態

ファン化というと、

  • 毎日発信する
  • 世界観を統一する
  • 役立つ情報を届ける
  • 接触回数を増やす
  • ストーリーを見せる

といった方法を考えます。

もちろん、どれも大切です。

でも、本当に起きていることは、もっと感情的でした。

  • 勉強のためだから見るのではない
  • 稼ぐために必要だからでもない
  • ノウハウだけが欲しいわけでもない
  • その人が、どう話すのか知りたい
  • その人の視点に触れたい
  • その人が次に何をするのか気になる

「この情報が必要」から、「この人だから見たい」へ変わること。

それが、ファン化の始まりでした。


ペルソナに感じてほしい感情を、自分が先に体験していた

自分の読者やお客様に、

「もっと私の発信を見てほしい」

「ファンになってほしい」

「この人から買いたいと思ってほしい」

そう願うことがあります。

でも、相手にどんな感情を持ってほしいのかを、具体的に考えたことはあったでしょうか。

私は、拓さんの発信に対して、

  • つい見てしまう
  • この人だから聞きたい
  • 耳が痛くても面白い
  • 自分のことを分かってもらえている気がする
  • 話を聞くと、次の一歩が見える
  • この人の商品だから買いたい

と感じていました。

これはそのまま、今後、自分の読者やお客様に感じてほしい感情でもあります。

つまり、

自分がファンとして動いた理由を、自分の発信へ返していけばいい。

ここに気づいたんです。

ファン化は、テクニックだけではつくれない

毎日投稿するだけでは、「この人だから」にはなりません。

役立つ情報を届けるだけなら、似た情報はほかにもあります。

大切なのは、何を伝えるかだけではなく、

  • どの位置から話しているか
  • 相手にどんな余白を残しているか
  • どんな未来を見せているか
  • その人と関わることで、何を体験できるか
  • 言葉と行動が、どれくらい重なっているか

という積み重ね。

第1話で見えてきたのは、相手の立ち位置をこちらから決めず、自分で気づける余白を残すことでした。

第2話では、相手と同じ場所に立ち続けるのではなく、寄り添ったあとに別の道を見せること。

そして最終話では、

その人自身が、どんな未来を選び、どこから話しているのか。

そこまで含めて、ファンは見ているのだと分かりました。


「相談しやすい人」から「先生として慕われる人」へ

私は長い間、

  • 相談しやすい
  • 気持ちを分かってくれる
  • 安心して話せる
  • 弱さを見せても大丈夫

という存在であろうとしてきました。

それは、決して失敗ではありません。

人が本音を話せる場所は必要です。

「こんなことを言っても大丈夫」と思える相手がいることで、やっと前を向ける人もいます。

だから、相談しやすい人であったことを否定する必要はない。

ただ、

  • この人から学びたい
  • この人についていきたい
  • この人のようになりたい
  • この人が話すから聞きたい

という位置は、まだ弱かった。

その理由も、今回の対談で少しずつ見えてきました。

寄り添ったまま、未来の位置を見せていなかった

私は、

  • 一緒に怖がっていた
  • 失敗する未来を先に想像していた
  • 聞き手と同じ場所に立ち続けていた
  • 乗り越えたあとの景色を見せ切れていなかった

のだと思います。

相手の痛みが分かることは、私の強みです。

見えない壁を言葉にできることも、質問や発信に生かせる。

でも、それだけでは相談相手で止まってしまう。

そこから、

「私はこうやって抜けてきた」

「この先に、こんな景色がある」

「同じ方法でなくても、あなたなりの道を選べる」

と見せる。

分かってくれる人から、未来を一緒に考えられる人へ。

その変化が、これからの発信には必要なのかもしれません。


良い話を聞いただけでは、自分のものにならない

今回の対談を聞いた人が、

「良い話だった」

「勉強になった」

「面白かった」

と思ってくれるのは、もちろんうれしいことです。

でも、そのままではまだ、

  • 拓さんが話したこと
  • ちゆきが質問したこと
  • 誰かが気づいたこと
  • 誰かの相談から生まれた答え

です。

つまり、まだ「誰かの話」。

「この話を聞いた人にも、自分のこととしてアウトプットしてほしいんですよね」

そう伝えると、

「自分で聞きに来ない限り、できないと思う」

と返ってきました。

「でも、音声を聞いて、自分なりに考えることはできますよね?」

「それはできるよ。でも、自分で聞きに来て、初めて自分のものになるんじゃない?」

また、耳の痛い話です。

自分のものにするためには、自分が動く

誰かの話を自分のものにするには、

  • 自分はどう受け取ったのかを考える
  • 自分の経験と重ねる
  • 分からない場所を見つける
  • 自分の言葉で質問する
  • 自分の言葉で書いてみる
  • 実際に試してみる
  • 必要なら、直接聞きに行く

という動きが必要になります。

正しく要約できることが、自分のものにすることではありません。

同じ言葉を覚えることでもない。

「私の場合は、どうなんだろう」

と、自分の現実へ一度引き寄せる。

そのとき初めて、聞いた話が自分の選択肢になります。


「できない理由」を、また外側に置いていないか

それでも、アウトプットしようとすると怖くなります。

  • 私が直接聞いた話ではない
  • 私の相談から出た答えではない
  • ちゆきが言語化した内容だから
  • 自分の理解が合っているか分からない
  • 私が発信してよい話ではないかもしれない

どれも、もっともらしい理由です。

勝手に解釈して間違えたくない。

人の言葉を、自分のもののように話したくない。

そう慎重になる気持ちは、私にもよく分かります。

けれど、その理由を使って何もしなければ、いつまでも誰かの話のままです。

「それは、やらないこととか、自分がアウトプットできないことを人のせいにしてるだけだから」

「うっ……。人のせい、ですか」

「ちゆきちゃんが聞いた話だからできない。私が直接聞いてないからできない。って、できない理由を人に置いてるやん」

言われてみれば、その通りでした。

自分のものにしたいなら、自分が納得できる動きをする

誰かの言葉をそのまま借りて、自分の答えのように話す必要はありません。

分からないなら、分からないと書けばいい。

「私はこう受け取ったけれど、まだここが分からない」

「自分の経験に重ねると、こう感じた」

「実際に試したら、ここは違っていた」

そうやって、自分が通った過程まで言葉にする。

  • 聞く
  • 質問する
  • 書く
  • 試す
  • 発信する
  • 反応を見る
  • 修正する

その繰り返しによって、人から聞いた話が、自分の中で確かめた言葉へ変わります。

そして最後に、今回の対談で一番刺さった言葉が残りました。

「できないのは、他人のせいだからね」

……痛い。

本当に痛いです。

できない自分を責めろという話ではありません。

何でも一人で背負えということでもない。

「誰かがこう言ったから」

「環境がこうだから」

「私が直接聞いた話ではないから」

と、決定権を外へ置いたままでは、自分のものにはならないということ。

自分で選びたいなら、自分が納得できるところまで動く。

その責任を、自分へ戻す話だったのだと思います。


音声を聴きたい方はコチラ

今日の気づき

  • SNSやAIを参考にすることと、決定権を渡すことは違う
  • 嫌な道を消して残った道は、自分で選んだ道ではないかもしれない
  • 消去法で選んだからこそ、続けるのに強い努力が必要になる
  • 好き嫌いを他人の反応で決めると、進む方向も周囲に左右される
  • ファン化とは、内容だけでなく「その人の視点に触れたい」と思われること
  • 相談しやすさを否定せず、その先の景色まで見せることが大切
  • 誰かの話は、自分の経験と重ね、言葉にして初めて自分のものになる
  • 自分で選ぶとは、正解を当てることではなく、確かめて修正する責任を持つこと

次の一歩

最近、

「これが正解だから」

「みんながやっているから」

「AIがそう答えたから」

という理由で続けていることを、一つだけ思い浮かべてみてください。

そして、少し静かに問い直してみます。

誰にも褒められなくても、私はこれを選びたいだろうか。

すぐに「はい」と言えなくても大丈夫です。

逆に、「本当は違うかもしれない」と気づいても、今すぐ捨てる必要はありません。

自分の好きが分からなくなっているときは、選び直す前に、

  • 何が心地よかったのか
  • どこで苦しくなったのか
  • 誰の言葉を正解にしてきたのか
  • 本当は、どんな景色を見たかったのか

を、少しずつ確かめていけばいい。

その問いに自分で答えようとした瞬間から、誰かの正解だった道が、自分の人生へ戻り始めます。


「この人だから見たい」は、自分で選ぶ姿から始まる

この連載は、

「なぜ拓さんの話は、耳が痛くても聞きたくなるのか」

という疑問から始まりました。

第1話では、相手を決めつけず、自分で立ち位置を考えられる余白があること。

第2話では、寄り添うだけで同じ場所に立ち続けるのではなく、別の道を見せること。

そして最終話では、発信者自身が、誰かの正解ではなく、自分の未来を選んでいること。

そのすべてが、

「この人だから、もう少し話を聞きたい」

につながっていました。

ファンになってもらうために、完璧な先生になる必要はありません。

弱さを見せてはいけないわけでもない。

過去の失敗を隠す必要もありません。

ただ、その弱さや失敗を、

「だから私は動けない」

という場所から語るのか。

「そこから私は、こう選び直してきた」

という場所から語るのか。

同じ体験でも、立つ位置によって、受け取られ方は変わります。

相談しやすい人だった時間も、無駄ではありませんでした。

人の怖さに気づけること。

言葉にならない壁を見つけられること。

同じ目線まで下りられること。

それは、これからも大切にしたい力です。

でも、もう同じ場所に立ち続けなくてもいい。

一緒に悩んだあと、

「こっちにも道があったよ」

と、自分が見つけた景色を見せてもいい。

読者がその道を選ぶかどうかは、読者自身が決めることです。

こちらが未来を決めなくていい。

ただ、自分が選び、歩き、確かめてきた道を、隠さず見せる。

その姿を見た誰かが、

「私も、自分で選んでみたい」

と思うかもしれない。

ファン化は、人を自分の方へ向かせることではなく、

その人が、自分の人生を選びたくなるような姿を見せること。

「この人だから見たい」の奥には、

「この人の話を聞いていると、自分のことを考えたくなる」

という感覚があるのだと思います。

誰かの答えを借りて安心するところから、

自分の言葉で、もう一度選び直すところへ。

その小さな動きから、発信も、仕事も、人生も。

少しずつ、自分のものになっていくのかもしれません。